昭和48年06月02日 竹内ヤエノ50日祭
ご奉仕祭にあわせての五十日祭を滞りなく仕え終わらせて頂きました。仕え終わらせて頂いて、奉仕させて頂く私共も、実におかげを頂くのでございますけれども。本当に御道の信心によって、おかげを受けられ、そして御道の信心によって、このように御霊の世界に入られてからも、お祭りをお受けになられると言う事は、お婆ちゃんの御霊の幸せを思うわけですけれども、もう神様に、その事をお願いやら、お礼やらさせて頂きよりましたら、私の方の御神願に頂きますのが。
黄菊、白菊をいっぱい、それもあのお花屋さんの店頭で、あの全開にならないように、薄い紙で巻いてありますでしょう。あれをね綺麗に一つ一つ全部取ってしまう所を頂いたです。これは私はまぁ、あの信心と言うのはこうする事が本当だと、いわゆる真とか、真心とかという事が言われますけれども。結局本当な事をする事だと思うのです。もうこのくらいで、良か良かと言ったようなものではなくて、または二かいっかと言った様なものではなくて、本当な事を本当な事として、させて頂くと言う事になる。
そういう、まぁ、遺族の方達の思いの姿だと思ったんです。本当にお婆ちゃんが喜ばれるだろうと、お互いの心のなかに、いうなら、咲いておる黄菊、白菊にも似たような、喜びの花と言うものが、この五十日祭、五十日祭、この五十日祭に、心が集められて、しかもその、五十日祭に取られた、あの、紙が、全部取られて、もう、それこそ、開き過ぎるもなからなければ、つぼんだのもない。
ちょうど頃合のいわゆる、心の状態がそのまま、この五十日祭に向けられたと言う事は、お婆ちゃんのご信心にもよること、お徳にもよる事ですけれども、後々の者の信心で、形式ではないね。本当に思いを込めての、このお祭りの様子を教えて下さったんだと思うのです。あれは何とかと言う、有名な法師の歌に、「ほろぼろと鳴く山鳥の声聞けば、父かとぞ思う、母かとぞ思う」と言ったお歌がございますですね。あれは京都の東大寺ですかね、なんかを建立された時の、あれは何とかと言う法師のお歌です。
ほろぼろと鳴く山鳥の声聞けば、父かとぞ思う母かとぞ思う。私はあの信心の情感と言うものは、それだと思うのですよね。私共の天地の親神様と氏子私共との係わり合い。または、肉親の親と子との係わり合いほど強い縁はないのです。ですからそこを縁を縁と分からせて貰うて、いわば信心とは孔子が親に仕える様なという心の状態が、御道の信心の根本姿勢だと、私は思うております。親の前にもうそれこそね。
自分の身をも犠牲にしてもと思う子供の心。又は親の前にはもう純粋無垢と。もう本当に純粋な心で、丁度あの二十四孝のお話しのなかにもありますように、親が寒中に筍食べたい。この寒中にどうして筍がありますかと言わずにね。やはり雪中に入って雪の中から筍を掘ろうと言うような、その純粋さが信心には求められます。同時にまた親の前には、ね。これも二十四孝のお話しの中にありますように、親が病気をして休んでおる。夏のことですから蚊がいっぱい。
そこで子供が親の枕元で、真っ裸になって蚊を自分の身体に集めて、そして親を楽にしたという、まぁ支那の古いお話のなかにあります。そういうです、心は誰しも持ってるです。親のために自分の身を犠牲にしてというものは持っとるけれども、それが本当に磨きだされていない。それが本当に出されてないところに、世の親不孝者だと言う事になるのです。始めから、親不孝しようという者は、誰もありはしません。親に喜んでもらいたい、親を安心させたいという心はあるけれどもです。
それやむにやまれぬほどしのものに高まった時が、本当の親に仕える子供の姿であり、孝子の姿と言うのは、そういうものだと私は思うのです。それが御道の信心の、いわゆる、根本姿勢だと私は思う。今日先ほどでした。久留米の教会の有名なご信者さんですけども息子さんが大学を出て、それからもう一つそのあれは何ですか、あのまいっちょ上の三年か四年か行かれて、お母さんは非常に熱心な信心をなさるのだけど、子供達が信心をしない。しかももうお母さんが、金光教なんて低級な信心しとるけん。
僕どんな恥ずかしかち言う。だから恥ずかしい信心か、恥ずかしくない信心か、私は説明出来んけれども、とにかく一遍、合楽の先生に会うて見なさいというので、今日は御導きして参って来とるわけです。それで私がまぁ色々と、お話させて頂きます中にね。昨日、一昨日でしたかね、もうそれこそあの御理解三節を基にして、これはもう金光教の教祖でなからなければ説き得ないところ、言うならばお釈迦様も説き得られなかった事。キリスト教も、ここまでは達していなかったと言う様な。
素晴らしい信心であると言う事を話して、なかなか頭がいいから、私が言う事がみんな分かる。もう十ヶ条ぐらいずうっと書いてきてる。それを質問する事を、次々とそれでとにかくね、もう例えば、教祖様が、御地内をみだりに穢すなよと教えておられるから、ね。例えば、御地内をみだりに穢さんだけではない。もし御地内が、汚いもので穢されておるならば、それを拭き上げるような心の状態こそが、あの大事なんだ。ね。と言うてお話しましたらね、こういう風に突っ込んでこられるんですよ。
その天地の親神様、その例えば、肥料なんかを、こう施しますよね。それを私、ちょうど、久富繁雄さんが、お茶を、その時出して下さいましたから、この方はねもうあの土井と言うところで牛蒡つくりの名人なんだ。お百姓さんなんだ。ですからお百姓さんが、例えば、あの、畑に肥やしをかけるといった様な事は、もう当然のこと、当たり前のことだけれども。御道の信心を頂かれるようになったらね。段々本当に勿体ないと言う様な気持ちが段々強くなってくる。
それでもやっぱり、肥料は施さなければならない。もうそん時に神様、ちょっと避けといて下さい。ご無礼致します、もう汚うありなさいましょうという様な心持でなさるというんですよと話しをしたら。却ってねあなた、地は肥やしをかけたら肥えてから、却って喜ぶとでしょうもん。汚いものを持って入ったら、却って喜ぶ。なるほどそういう理屈もあるんですね。けれども御道の信心はね。
例えば親と子の情感をもって説かれてあるし、又はその子が親を思い親が子をまた思うという、その情感というものが交流する。その交流するそのルートを辿って、これは私共、信心のない人では分からない、言うならおかげの世界と言うものが展開してくるのであり、おかげがそこのルートを辿って、交流してくるんですよと言うて、お話ししましたら、まぁ分かったような分からないような顔をしてましたけれどもね。
本当にあの私共が、神様と私共の交流、それを一番身近に感じれるのは、お先祖であり又は親の御霊様、いわば子供が親の御霊様へ奉仕をする、この時にこれは理屈ではないものが交流いたします。いわゆる形式でない限り。思いで仕える限り真心で仕える限り。例えば今日のお祭り、神様から私がお知らせ頂きます様にですね。今日のこの五十日祭というお祭りを、本当に思いを込めて、お婆ちゃまが喜ばれる、お婆ちゃまが喜んで頂く様なという情感を持って。
いわゆる真心をもって、このお祭りが奉仕されるところに、お婆ちゃまの心に通うものを奉仕する私も、皆さんにも通うてくるものを頂かれただろうと、こう思うですね。五十日祭を仕え終わらせて頂いてです。まぁ沢山の御霊様の奉仕を、私させて頂くんですけども、五十日も経っておって、まだ自分がお国替えをしておるか、しておらないかを、まぁだ、死んでると言う事を分かってないほどしの御霊様があるです。
沢山のなかに。いわゆる、そういうのを、まぁ、仏教的に言うなら、迷うておるという事でしょうね。もうそれこそ、私は今日のお祭りを五十日祭て言うなら、まだ生々しいものが残るのですけれども、そういうものがさらさらない。もう本当に御霊の徳と言うものを何と言うでしょうか。教祖様が生きどおしに生きると言う事は、後々の者から何時何時までも、拝んでもらおうと言う事ですと仰っておられます。
生神様だから何時何時までも、死なれる様な事はなかろうと、と言うてその申し上げた時に、教祖様はこの方とても生身を持っておる。塩漬けじゃないからと仰ったね。だから生身を持っておるからね。死ぬることは死ぬるけれども、生きどおしに生きれる道だと、金光教の信心は。ほんなら、生きどおしに生きれるというのは、私共がこの世にある時に、いよいよ、魂の清まりを願わせて頂いてです。
御霊の世界に入らせて頂いて、言うなら御霊の位も進むにつれて、御霊の働きも出来るようになりそれが子供達、いや子孫にも残って、お婆ちゃまのおかげで、こういう信心をいわゆる末の末までね。竹内の家の鎮めの御霊、竹内の家の信心の元を取って下さったお婆ちゃま。そういう意味で後々まで、拝まれなさると言う事は、後々まで生きどおしに生きられるお徳を頂いて、お国替えになったという風に、私は信じます。
これからとても、勿論まぁけれども、よく仏教なんかでは、本当に形式で色んな、まぁ賑やかに親戚を呼んだり、知人を呼んだりして、こうするけれども、それが段々形式化していくあれがありますのに、信心させて頂いておれば、それが出来ない。なぜかって心を中心にするのだからね。心を大事にしていくことが信心なのだから。しかも本当な事を、本当な事として、現していくのが御道の信心だからね。これが続けられていく限り、遺族の方達のおかげもさることながら。
御霊の位も一段と進められ、一段と御霊の働きもお出来になる事であろうと、こう思います。今日の五十日祭を奉仕させて頂きまして、本当にこれからも先ほどあの、奉仕のお話しを致しました。例えば山鳥の声を聞いても、ふっとお母さんの事を思い、お父さんの事を思い。仏教でいうあの輪廻説と言うところから、生まれ代わりと言う事を仏教では言う。だからひょっとするとあの山鳥が、お母さんの生まれ代わりかも知れないと言う様な思いで、心を一切の上に通わせながら。
これからの信心が進められていく限り、御霊様もいよいよおかげを受けられね。子々孫々、いよいよ家繁盛いわゆる、子孫繁盛のおかげを頂かれる元を作ってくださったお婆ちゃま。そういう意味で今日はいわば、有難い御霊様のお祭りであったという風に思うのです。これからもいよいよ、もうこの頃ね、私あるご信者の家に宅祭りに参りました。そして、そこの三柱の御霊様の式年に当たっておりました。
だからそれに合わせてです。それに合わせて御霊様のお祭りをさせて頂いて、お祭りも済み、御霊様の前に出て、装束着けながら、座ろうとした途端に、こう何か前からバーンと突かれた様な感じがして、もう後ろへこうやってひっくり返ってしまった。もうこんな格好の悪い事はなかった。まぁ皆さんにお参りになっとる方達も可笑しい、恥ずかしい思いをするくらいでした。もう後ろへひっくり返ったね。
何かお粗末が出来とった、ご無礼が出来とったなと思うて、お詫びさせて頂いておりましたら、二かいっかが神の機感に叶わんと、神様が仰いましたね。宅祭りをするついでに、御霊様のお祭りもしてくれち言う。その二かいっかの心が、神の機感に叶わぬち言うね。それで改めてまたあのお祭りをさせて頂いた訳でございましたけれどもね。もう御道の信心はどこまでも、本当な事を本当な事として現していくのが信心であります。
どうぞ。